(ひだか平和新聞連載)
1、青年団主催の「入営兵出発歓送会」名簿(S7,1、9)
2、第一次大和義勇隊開拓団員の手記
3、応召軍人遺家族中小学校在学児童、就学困難児童数一覧
4、旧日本陸軍高萩飛行場の記録
5、学童疎開の記録
戦争の犠牲者=戦没者の明治、大正、昭和の記録を掘り起こすのはたいへんな作業です。参考までに自治体での取り組みを調べました。日高市周辺では滑川町に公刊された戦没者名簿が有り、別に滑川村英霊史があります。これらはS53年発行で当時の小久保村長の肝いりで出版されています。日高ではどなたかご存知ないでしょうか。
(101号掲載)
遺族会というものが各地にあります。日高での活動の実態を調べればなにか分かる可能性があります。遺族会ではないのですが、「開拓50周年記念誌、風雪に耐えて 日高町高麗川新宿地区」には戦前・戦後の開拓者たちのご苦労が記録されています。高萩飛行場開設のために開拓地を接収されていく様子が克明に記録されています。
お寺の住職に相談をするのが早い、という説があります。学童疎開は日高市内では松福院が東京の浜町小学校を受け入れています(松福院:日高市北平沢1073)。関係者で存命の方もいらっしゃるのではないでしょうか。日高市平和委員会主催で東京大空襲の戦災資料館に行ったとき、日高市周辺の学童疎開の記録がたくさん展示されていました。
民主文庫の野村先生に相談をしましたら、「偕行」1991〜1999年のバックナンバーを紹介されました。これは旧陸軍将校(生徒)と陸上・航空幹部自衛官OB機関誌だそうです。読めば日高に関する項があるだろうとのことです。 文庫館は秩父事件の資料収集をしているので関連資料があるようです。具体的には「竹橋事件」を扱った歴史小説「火はわが胸中に有り」澤地久枝著に秩父出身者の名簿が載っていました。この事件は日清・日露戦争以前の出来事で、「西南の役」に端を発しています。日高市史で関連記録を発掘することを予定しています。
2.26事件関係者が飯能に居た、とも野村先生は話してくれました。渡辺氏(飯能)、安倍晴彦氏(飯能)からは、2.26事件関係の資料は豊富にあると教えていただきました。 次回は日高市内に残されている明治以降の戦争に関する碑についてご紹介したいと思います。(102号掲載)
戦前は「天皇の権威」があまねく日本国内に及んでいることを示す象徴として行幸記念碑が建立されました。たとえば1929年(昭和4)6月、昭和天皇が南方熊楠の講義(菌類をはじめ多数の植物に関する学識)を聞きに和歌山県を来訪したことがあります。その翌年に行幸記念碑建立の話が持ち上がり、講義が行われた島(神島)に建てられることになりました。
地元では昭和天皇が訪れた地を「上陸地点」としそこに建てられることになりました。そして記念碑の碑文として「昭和天皇の仁愛と権威により末永く保護されるように願って 一枝もこころして吹け沖つ風 わが天皇(すめらぎ)のめてましし森ぞ」と詠み、南方熊楠の自筆として刻まれました。
日高においては昭和天皇行幸記念碑(武蔵高萩駅周辺)があります。これは陸軍高萩飛行場での航空士官学校の卒業式に出席したことを記念して建てられたものです。近年、武蔵高萩駅が立て替えられたとき、行幸の歴史を示す展示物が新駅舎に設置されました。
最近の例として、平成18年度飯能市吾野地区協働計画「アクションプラン」の将来像⇒自然と人が織りなすやさしい憩いのまち―吾野― サブテーマ⇒みんなで知ろう吾野の文化と歴史と称して、 「アクションプラン⇒昭和天皇陛下行幸記念碑、明仁親王殿下、美智子妃殿下行啓記念碑と、お立ち台の建立」が進められました。「かつては先帝陛下、そして今上陛下、皇后陛下も探勝され」たとし(飯能市議会会議録収録)、「観光の目玉」として吾野地区まちづくり推進委員会が実施しました。「吾野の文化と歴史」は観光産業の柱である。その柱に「昭和天皇一家の訪問」を位置づけたことは次世代の子どもたちに少なくない影響を与えたはずです。
下の図は飯能市のホームページから転写したものです。吾野地区協働計画「アクションプラン」(将来像)自然と人が織りなすやさしい憩いのまち-吾野(サブテーマ)みんなで知ろう吾野の文化と歴史の「アクションプラン@」になっています。
(103号掲載)
地球上における戦争の歴史を俯瞰すると、それは国と国同士の外交問題の解決の手段として行われてきたといえます。戦争は軍民問わず多くの人の命を奪い、また傷つけあう。土地を奪い(失い)家屋を失い生きる希望すら奪ってしまう。戦勝国も敗戦国のどちらの国の人たちにも、様々なわだかまりを残したまま時間が経過していく。何より心配なのは、彼の戦争や核の問題が「教訓」とされず、今も拡大を続けているということです。
昨年のG8では、核廃棄について議題に昇りましたが、かつての冷戦時代よりも多くの国が核を保有する時代となってしまっています。かつて私たちの父母や祖父母の世代が真摯に世界に訴えかけた戦争や核の悲惨な結果が、この世界に拡散しないためにはどうすればよいのか真剣に考えるときです。
2009年の日本平和大会第6分科会では「加害・被害の歴史」が議論されました。議論の中身は日本の中国侵略、日韓併合、原爆投下、東京大空襲でした。私が突き当たった問題は「加害・被害の歴史」を語る人が高齢化し、第3の目(若者)を抜きにして加害・被害の歴史は語れなくなっていることです。若者への平和教育は教科書を中心とした講義と、広島・長崎の訪問などの実践教育がセットになって教師たちが進めています。しかし、学校教育を離れた社会では平和を語ることは少ないので、平和委員会の活動分野も若者にシフトせざるを得ない情勢です。
9条改悪を目的に「加害・被害の歴史」を捻じ曲げようとする勢力は、田母神論文をもてはやし、かつ彼が自衛隊のトップとして青年隊員に君臨したことを許してきました。彼を支持する青年隊員たちがアパグループの懸賞論文にも名を連ねていることを意識しつつ、平和の分野でも若手の活動家を増やしていくことが決定的に重要です。
今年は日韓併合100周年です。標記関連事業が政府主導で実施される見通し(小沢・李会談)です。したがって「加害・被害」の議論がマスコミを通じ盛んになるのは必至の情勢です。今年5月は高麗神社主催の建都祭りがあります。大勢の人々が高麗神社に集まります。たとえば「埼玉ねっとわーく」という団体がこのお祭りに合わせて高麗郷フィールドワークを実施する予定です。建都祭りは遠く奈良時代にさかのぼるお祭りですが、日韓の加害と被害を考える機会にもなるのではないでしょうか。(104号掲載)
今回のお話は日高市大字横手字小瀬名に昭和19年に建立された殉難碑のことです。この石碑については文末のホームページに写真や碑文が紹介されています。
石碑建立のいきさつについては、細川友一氏の著書「碑 ‐短編小説集‐」に書かれています。同書は文化新聞社より平成18年6月20日発行。飯能市立図書館の蔵書にもなっています。著者の細川さんは、元国鉄勤務、趣味は俳句で俳号は真水、日高市「文芸ひだか」編集委員、文化新聞の「文化俳壇」選担当、「日高路俳句会」会長です。
同書によれば小瀬名は標高370m、日和田山305m、物見山375mの中間の高さです。本の最後には地図が付してあります。昭和19年5月27日、横田飛行場より飛来した双発の飛行機が小瀬名の耕作地に墜落、乗員4名が即死したため、陸軍が殉死として地元に慰霊碑を建てるよう要請、それにこたえて地元住民が4名の名前と階級を記した石碑を建てたいきさつを小説化したものです。
石碑の建立者は小瀬名の駒井万平、建設者は駒井嘉一と杉田源吉と記されています。小説では飛行機が墜落する模様にはじまり、遺体収容と機体の回収に当たった陸軍将校の指示で石碑建立が為されたこと、墜落現場が耕作地であったためその復旧と石碑建立にいたる住民の苦労が描かれています。
当時、飯能は陸軍士官学校の将校や生徒が行楽に訪れる場所として有名でしたし、日高の現旭丘には陸軍飛行学校高萩分教場があり、武蔵高萩駅には昭和天皇の休息所と防空壕が設置されるなど旧陸軍とは深い関係があったのです。同書には分教場への空爆のこと、高麗川駅にも艦載機が現れ、機銃掃射を行ったことも書かれています。また、8月15日の終戦の様子も描かれています。
同書の記述で気になったのは軍用機が住宅を避けて墜落したと描写していることで、これは1999年11月22日に入間川河川敷に自衛隊機T33が墜落したときに住宅地を避けて住民への被害を防いだ、というキャンペーンと重なることです。(105号掲載)
小瀬名殉難碑より西方を臨む
本連載で「戦没者名簿」を探していることを書いたところ、それを読んだ会員のOさんから本書の存在を教えてくれました。Oさんによると中学生時代、本書は町立図書館当時、「日高出身者の出版物コーナー」に置かれていたそうです。市立図書館になってからは見当たらず、図書館に問い合わせても未回答とのことでした。Oさんがあちこち知人をたよって探し出したのが本書でした。父方の伯父の記録(S19年9月中国中部で没)が本書に載っているとのことです。
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書名:嗚呼いしずえ(日高町戦没将兵の記録) 本文274ページ。発行はS40年8月15日、印刷者は水村転蓬(てんぽう)氏。印刷機械を自費で購入し500部を印刷、原価を下回る500円で頒布。記録によると日高の戦没者は488人(日清、日露含む)、上鹿山出身者は20名余。本の配布数は関係者488人、残部は公民館や図書館に寄贈。まとめに携わった人:谷ヶ崎庫之 元日高町議。 当時の町長は岡村良太郎氏 |
(106号掲載)
戦死者の霊にささぐ ・水村転蓬・ (昭和四十年 「嗚呼いしずえ」収録)
美くしきこの山河と いとしき人を守るべく 勇躍おもむきし四百の若人 はるかなる空の下に 弾丸つきて ついに帰らず 泥水をすヽり 木の葉かみ 肉弾をもつてよく寸土を死守せるも. 無念なり 物量の差を如何せん たのむ援軍は海没し 現わるは何事ぞ 見なれぬ巨艦のみ いまは術なし と決意するバンザィ攻摯 死地を前にかすめるは何ぞ あヽ わがふるさとよ無事なれ 日和田は常に青く 高麗川は永久に青く 高萩の土地 また豊なれ 父母よ なげき給うな さみしくも 妻よこらえよ 吾児よまた 父なしとなげくなかれ 汝が父は斯く散りし 平和のいしずえなれば さらばはや 未練なしと 敵地深く斬込む孤島の守備隊 敵艦めがけて自爆する特攻機 爆薬抱きてキャタピラにくぐる北満の兵等 あヽ 壮烈 鬼神を泣かしむ かくて郷土の若人 いまもなお異国の地にねむる 願わくばヤシの実よ その芳香をもって英霊のノドをぬらせ 彼の大陸のスズランよ アンズの花よ 今年も又 そのまくらべにさけ |
現在の巾着田周辺 |
S20年2月以降戦没者が急増している。近衛文麿が天皇に戦争終結を上訴(木戸幸一日記)した時期と一致:天皇は特攻作戦で戦局を有利に進めようとした(有利な「終戦」工作条件作り)。 その犠牲になった人が日高に多いのではないか。
明治政府の成立以降、日清戦争や日露戦争での戦死者の供養のために、自治体で建立した碑。大正11年建立、大将を祀る。元は高麗川の学校にあったが新憲法公布後で原宿袖山稲荷境内に移転した。
2010年3月7日撮影
(106号掲載)
「日清・日露・大東亜戦争」戦没者を祀る。昭和51年、高麗川遺族会が建立。建立の経緯、碑文、戦没者名、階級は裏面に刻まれている。原宿公会堂そば袖山稲荷境内に建立されている。
2010年3月7日撮影
日高市民が書いた戦争の記憶として、書籍の形で残っているものを調べました。
○加島 茂さんの経験談 出版 「氷のシベリヤ抑留記」1997年5月出版 日高市立図書館、日高出身者コーナー
○関根さんの経験談 「ソ連抑留体験記」 埼抑協日高町支部編集発行 1984年2月1日発行 岡野印刷所 日高市立図書館蔵 に収録
○ 宮澤金作著 「異国の丘 ソ連抑留体験記」1981年出版 日高市立図書館、日高出身者コーナー
○ふるさとの記憶(2001年 横田八郎著)高萩飛行場など 日高市立図書館 日高出身者コーナー
(107号掲載)
日高市は1955年(昭和30年)に高麗川村と高麗村が合併し日高町に、翌年に日高町と高萩村が合併して新日高町が誕生、1991年(平成3年)に市制を施行した。106号にご紹介した「嗚呼いしずえ」には高萩、高麗川、高麗地区の戦没者488人の経歴、階級、家族の様子、死亡原因、死亡地が記録されている。記録された方の一部をご紹介する(敬称略)。
竹野谷公支 T7-10-12生まれ、高麗川小学校を卒業し立川航空廠高萩支廠勤務中にS14−6−9召集、間もなく中支派遣軍に編入、激戦を伝えられた漢ロ攻略戦に参加したのをはじめ、各地の戦線に従軍中S16-10-25 24歳で戦死。
海軍軍属塩川達雄は父正雄の三男でT13-1-11生まれ、高萩小から川越中学校を卒業、高等海員養成所機関科を終了と同時に海軍予備上等機関兵曹の資格を得、山下汽船株式会社へ入社 輸送船山水丸の二等機関士として従軍中 S19-10-6南太平洋上フィリピンフェルナンド沖にて敵艦の雷撃(米潜水艦カブリラから魚雷攻撃=Wikiより引用)を受け沈没、21歳で戦死。
駒野勇 T6-6-15生まれ、高萩小学校から川越中学校を卒業、昭和14年9月7日陸軍航士卒で昭和14年11月1日陸軍少尉(立川技術学校)、昭和15年12月1日陸軍中尉、昭和17年12月1日陸軍大尉、昭和19年7月陸軍少佐(南方総軍)、昭和20年7月ニューギニヤジハクで損害大なるに責任を感じ28歳で自決(陸軍中佐)、の記述が見える。
ニューギニアでの戦闘について、当時の新聞報道では「玉砕」と伝えている。このニューギニアの戦闘については昭和49年出版の『朝日新聞に見る日本の歩み』で取り上げられている。同誌は飯能市立図書館の蔵書になっている。同誌によればニューギニアで死亡した兵士は18万、そのほとんどがジャングルに敗走中の餓死・病死・自死と伝えている。
戦没者の記録としてはほかに高麗地区遺族会が出版した「誉(ほまれ)」、同遺族会建立の「忠魂碑」があるが、機会を設けて紹介したい。
(107号掲載)
この写真の中に「グランド」と白抜きで記述された箇所があり、その位置は能仁寺の前で現在の飯能市民会館駐車場と推定される。 解説によるとそのグランドには細かな物体が置かれていて、それが旧陸軍の飛行機(解体後の)だとされている。それらの飛行機は豊岡や高萩の飛行場で解体され、それらがトラックで運び込まれたとも書かれている。このスクラップはしばらく置かれていて子ども達の遊び場になっていた、などとかなり具体的に書かれている。金偏景気のころ(朝鮮戦争特需の別称)にはすでに無かったが、置かれていた場所を掘るとそれら飛行機の残骸が出てきたとも書かれている。
多摩地域や埼玉の旧陸軍飛行場にあった軍用機は横田基地に集め、そこで解体・スクラップ化されたとの記録もある。この写真から推定すると横田に送られる前の記録とも言える。戦前、軍用機の献納運動が盛んに行われたが、日高も例外で無かった。
なお、本書は飯能市立図書館の蔵書になっている。
(108号掲載)
12 国民精神総動員と日高の軍事拠点化
1937年(昭和12年)、日中戦争(支那事変)の勃発以降、昭和14年4月28日「時局認識徹底方策」が閣議決定され、日本中が軍事一色に染まっていく。閣議決定の全文をここに示すことはできないが、これまで連載された事実はまさにこの決定に端を発している。戦前の日高も例外ではなく、一言でいえば「軍事要塞化」された農村であった。
この閣議決定の前文にはこうある。「( 国民精神総動員新展開の基本方針に基いて、時局認識の徹底方策を講ずるに当りては、支那事変の本質に対する透徹せる認識に基き、国の内外に於ける実際の情勢と之に処する我国の根本目的並に其の実現方策を普く全国民に浸透するやう各方面に対して、具体的且有機的に知らしめ、「成程、日本は今容易ならぬ場面に臨んでゐる、世界史上一大時機を画する最も重大な地位に立つてゐる」といふことを、充分自覚せしむると同時に、「我が皇国の興廃は一に懸つて事変処理の如何に存する。如何なる苦難を忍んでも肇国の精神を世界的に発揚するやう、国民相共に誓つてこの光栄ある任務を成し遂げねばならぬ」といふ決意を固めさせ、以て国民の全能力を集中発揮して、強力日本を建設しなければならぬ。)と。
日高に於いては兵役の賦課、満蒙開拓団への動員、軍用地の接収、天皇への忠誠心の涵養、在郷軍人会の組織等々、過酷な命令が下される。現在の日高市旭ヶ丘には区画整理された地域がある。ここは戦前、開拓地として開墾された土地を陸軍が接収、高萩飛行場を開設、終戦後米軍が接収、そのご食料増産を目的に県が民間に払い下げている。現在は農地のほか武蔵高萩駅、工場群、日高高校などの施設が置かれている。戦前、高麗川駅や武蔵高萩駅は陸軍航空士官学校への天皇行幸の通過点であった。旧武蔵高萩駅の建設は昭和15年7月に川越線(埼玉県大宮‐高麗川駅間を結ぶ)の開通と同時に開設され、旧入間郡豊岡村の旧陸軍航空士官学校の卒業式に臨席する昭和天皇のために、特設ホーム、駅舎には車寄せと貴賓室、防空壕を備えていた。現在、武蔵高萩駅に隣接して昭和天皇の行幸記念碑が建てられている。記念碑には昭和天皇が昭和16年、17年、19年の3回にわたって立ち寄ったことが記録されている。
13.住民の土地取り上げによる高萩飛行場の開設
高萩飛行場開設の経緯に関する資料であるが、防衛省防衛研究所保管資料の中に、陸軍航空本部が昭和14年2月、3月に「高萩陸軍飛行場拡張敷地買収の件」を、昭和14年7月には「高萩飛行場張芝工事の件」を、昭和15年9月には「高萩陸軍飛行場擴張工事實施の件」を、昭和15年12月には「高萩陸軍飛行場拡張敷地買収の件」が「実施することに定められた」と建築・主計・軍事に対して「依命通牒」されたものがある。
高萩飛行場の用地買収に関する住民側資料は、「開拓50周年記念誌、風雪に耐えて 日高町高麗川新宿地区」に詳しい。日中戦争(日支事変)以降軍部は飛行場開設のため農地や山林を買収した。また資本家は軍需景気に沸いて工場をどんどん建てたのである。このため土地が高騰し、農家の2、3男は土地を持とうと思えば開拓に頼るしかなかったと言われる(宮本百合子「昔の火事」)。高麗川新宿地区の開拓地は北海道旭川の農民が昭和9年を中心に20数名で800町歩の山林を農地にしたが、昭和12年に陸軍が第1期180町歩を接収して高萩飛行場とした。次に第二期70町歩が陸軍に買収されたのである。
同誌では開拓の経緯を以下のように記している。「・・・。昭和9年を中心に20数名の方々が、遠く北海道より青雲の志を抱き、この地に理想郷を築き上げるべく営々辛苦を重ね、開拓に励み立派な農業用地として、又第二の故郷としてこの地に根をおろし、・・・・」。しかし戦争はこの人たちを追いやり過酷な生活にたたきこんだのである。買収当時を知る住民たちの座談会が同誌に収録されている。それによれば、強制的な家の移転に関し編集部の問い「飛行場ができたのは、強制的なんですか」、に対してUさんは「軍の力が強く、命令的で無条件ですね」、またFさんは「飛行場ができた時は、閉口しました。家を70mかみに持っていけと言われた。渡辺さん(だいぶ年配の人なんだけど)に頼みました。補償を貰わないと、3回程行きました。可愛そうだからと言って、返事をしてくれました」。
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碑には「高萩飛行場跡」とあり、1996年8月にできたものです。 すぐ左側の金属板には、飛行場の歴史が記してありました。
14.絶対服従の天皇行幸
昭和14年3月2日、陸軍省は「鉄道施設に関する件」を発した。その内容は豊岡の士官学校への天皇行幸に際し、鉄道省次官に当てたもので、「来ル四月中旬挙行セラルヘキ陸軍航空士官学校ニ行幸ヲ奏請致度ニ付八高線経由高麗川駅使用ニ関シ貴省ノ意@承度照会ス
追而将来ハ新設川越線高萩駅使用ヲ希望致度ニ付配慮煩度申添フ
陸普第九四七号※地図あり※ 二第四五五号其一 運第一六九号
昭和十四年三月二日 鉄道次官 喜安健次郎 陸軍次官
山脇正隆殿 回答 二月十八日付陸普第九四七号原宿高麗川間八高線経由御召列車運転ノ件差支無之候
追而右実施ニ当リ運転時刻、御召列車編成等細部ニ関シテハ東京鉄道局長ト関係ノ向ト協議スル様致度」とある。
昭和16年3月22日、枢密院書記官稟議として「案 天皇陛下本月二十八日埼玉県下陸軍航空士官学校ヘ行幸アラセラルヘキ旨被仰出御発著割左記之通官報ヲ以テ発表相成候ニ付テハ原宿駅奉送枢密顧問総代トシテ議長ヨリ貴官ヲ指定セラレ候間此段及御通知候也 昭和十六年三月二十二日 枢密院書記官 松井枢密顧問官殿 御発著割三月二十八日 午前八時五十五分 御出門 同九時十五分 原宿駅御発車 同十一時五分 武蔵高萩駅御著車 陸軍航空士官学校ヘ行幸 午後二時 陸軍航空士官学校発御 同二時二十分 武蔵高萩駅御発車同四時十分 原宿駅御著車 還幸 又 天皇陛下本月二十八日埼玉県下陸軍航空士官学校ヘ行幸アラセラルヘキ旨被仰出御発著割」なる文書が残されている。
また、昭和17年3月26日には枢密院書記官稟議として以下のような文書が残っている。「案
天皇陛下明二十七日埼玉県下陸軍航空士官学校ヘ行幸アラセラルヘキ旨被仰出御発著割左記之通官報ヲ以テ発表相成候ニ付テハ原宿駅奉送枢密顧問総代トシテ議長ヨリ貴官ヲ指定セラレ候間此段及御通知候也
昭和十七年三月二十六日 枢密院書記官 深井枢密顧問官殿
御発著割 三月二十七日 午前八時五十五分
御出門 九時十五分 原宿駅御発車 十一時五分
武蔵高萩駅御著車 陸軍航空士官学校ヘ行幸 午後二時
陸軍航空士官学校発御 二時二十分
武蔵高萩駅御発車 四時十分 原宿駅御著車 還幸
又
天皇陛下明二十七日埼玉県下陸軍航空士官学校ヘ行幸アラセラルヘキ旨被仰出御発著割左記之通官報ヲ以テ発表相成候ニ付テハ原宿駅奉迎枢密顧問官総代トシテ」
住民はこの天皇行幸に際しても絶対服従を強いられた。老若男女は日の丸の旗を持って整列し、小学生は天皇の乗るお召列車の通る線路わきに並ばされて最敬礼をさせられた。行政側は天皇が通る道沿いは牛馬を繋いではいけない、肥桶は片づけよ、老人たちは紋付袴で最敬礼せよと住民側に強制した。警察はひごろ目を付けていた住民を拘束し自由を奪った。
旧武蔵高萩駅 新駅舎はほぼ同じ位置に建設された。 駅前通りの桜並木は開設当時のままで、現在も みごとな桜が咲く。 |
昭和天皇行幸記念碑 |
行幸記念碑(上右写真) 旧駅舎時代は駅舎北側に建立されていたが、新駅舎になってからは県道に通ずるバス道路わきに移設された。石碑建立は建碑委員会による(裏面に経緯、委員名簿を刻む)
連載あとがき
悲惨な戦争も歳月が経つとともに、その「記憶」は次第に消えていく。体験者がいなくなるからだ。しかし「戦争の記憶」を伝えてくれるものが完全になくなるわけではない。まずあげられるのは戦争遺跡である。軍事施設としての建物や地下壕などはいまも数多く遺されている。次に「石碑」や「銅像」がある。それらが戦争遺跡と異なっているのは、戦争にかかわる何らかの記憶を意識的に伝えようと建立されたことにある。
では太平洋戦争に動員された兵士たちの苦闘を物語る石碑、入間・横田基地の存在を物語る石碑を紹介した。「昭和天皇行幸記念」の石碑が武蔵高萩駅前に建立されたことに留意し、他の地区での石碑建立の経緯を2例紹介した。さて石碑を紹介しただけでは戦争の本質がわかるとは思えない。戦没者名簿、証言集、写真を含めた著作物を含めて戦争の記憶を伝えるものも紹介した。
連載はこれで終わりであるが、振り返ってみると自らの浅学非才に汗顔の至りである。私の作業は人の作ったものを調べ、検証してきただけである。それぞれの「記憶」をとどめようとした石碑建立者、名簿作成者、著者たちの想いを十分に伝えられただろうか。
日高市における公的取り組みを調査しました。市の行政的位置づけを市役所の職務分担で推定しますと以下のようになっています。この職務分担でみますと、以下、表中の矢印→で示した担当が該当するようです。
この表をふまえ、調査に当たっての留意点を列挙しますと。
@ 名簿の存在、関連資料の存在などを聞く、
A 友人・知人の中で援護を必要としている方がいるかどうか、
B 日高市民内野さんの想いを聞き、意見をいただく。
社会福祉課(本庁舎1階)
社会福祉担当
* 生活保護に関すること。
* 民生委員、児童委員及び主任児童委員に関すること。
* 厚生基金及び高額療養費貸付基金に関すること。
* 保護司に関すること。
* 日本赤十字社に関すること。
* 社会福祉協議会との連絡調整に関すること。
→ * 戦傷病者、戦没者遺族等の援護に関すること。
* 行旅病人及び同死亡人の取り扱いに関すること。
* ホームレスの自立の支援等に関すること。
* 災害援助に関すること。
* 地域福祉計画の策定及び推進に関すること。
* 部の庶務に関すること。
なお、今年度の行事は以下が予定されています。
H21/03/14(土) <戦没者追悼式> 飯能市民会館
(終わり)