日高の神社・仏閣

                          山形県駒形神社御由緒、 

                        

興味のある点・・・・入間郡日高町大字久保字稲荷前344番外所在の塚が富士山信仰の結果、当時の人々によって作られたのか?  それとも4〜6世紀の人々によって作られたのか?  日高市内にはほかに、六つ塚、山王塚などの地名がある。

2009年、富士吉田市に歴史民族博物館を訪ねました。ここは富士山の信仰登山者を迎える御師に関する資料と展示があり、富士山の信仰について分かりやすい説明を聞くことができました。富士吉田市には富士山の登山口があり、その起点となる上吉田は古くから信仰のために登山する人々が訪れ、賑わっていました。富士山信仰は山岳仏教が変化したもので、霊、仏と神が合体しその頂点にあるとされました。

富士山信仰は江戸時代になって盛んになり、御師は関東地方の東京都内の新宿とか、埼玉県の川越とかを中心とした「檀家」のような信者団体を基礎に勢力を保ち、それらの人々を「道者」と呼びました。道者は無尽講によってつながりを持ち、数年に一度は富士山登山に向かいました。御師は一年に一度、自分の「檀家」を回り、お札や絵、扇子や手ぬぐいなどを置いていきました。その際に次の誰が富士登山にくるかを組織していきました。道者は御師の家(宿屋)に泊まり、到着時と下山時に宿舎の庭に設けられた小滝で身を清めました。また、山伏などプロの信仰集団は険しい山道や河沿いに富士山に向かいました。御師の家は富士吉田の金鳥居を起点とした登山道の両側にたくさん並んでいましたが、明治以降の富士登山信仰組織の衰退と、5合目までの自動車道の発達で宿泊する道者が減少し、僅か数件が残っているのみだそうです。御師民宿 大国屋が有名です。観光記念館として旧外川家住宅などが残っています。

江戸時代になると、富士山の登拜庶民の間でも広く行なわれるようになった。庶民は富士山への信仰を強くし、特に江戸の各地には富士山を遥拝する富士塚が多く作られた。富士塚は土を盛って作られた人工の小さな山で、富士山がよく見えるところに作られ、山頂には浅間神社が祀られて、富士山に行くことが出来ない人たちでも擬似的に富士山の登拜を体験することができるようにするものである。見える山の多くは「浅間山」(あさまやま)や「朝熊山」(あさまやま)と命名されている事が多い。また、港湾から見える場合も、「浅間神社」の石碑を建て「浅間さん」(せんげんさん)として祭っている地区もある。

      証言1 南小畦川に架かる大下橋の右手はるか向こうに、富士山の真っ白な姿が見える。(以下、工事中)

参考事項