メーデーと神社

2005年5月1日、飯能日高メーデーは飯能八幡神社で開催された。メーデー会場が神社の境内でなんで行われるのか、考えてみた。

日本の神様というものは実にさまざまな起源を持つことで知られている。その時々の権力者によって建立されたもので、祭られている神々のエピソードについてもさまざまな特徴がある。

先の大戦後、各地の神社は県単位の神社庁のもとに統括される宗教団体となり、全国にわたる組織を有する。神社庁は伊勢の神宮を本宗(ほんそう)と仰ぐ全国約80,000社の神社を包括する宗教団体である神社本庁の地方事務所であり、各都道府県に置かれている。埼玉県神社庁は下部組織に9の支部を擁し、県内2001社の組織体として、伝統を重んじて祭祀の振興、神社や神職の指導等神社に関わる事務をとるほか、昭和27年、サンフランシスコ講和条約発効の後は、連合国軍総司令部による「神道指令」によって「不当に圧迫された神社信仰の回復に意を注ぐ」として祭礼など地域事業の振興や神話の普及活動を通じて、日本の歴史教科書の中にも強い影響力を及ぼしつつある。


 
  2005年5月1日 飯能日高メーデー 飯能八幡神社を出発し東飯能駅に向かって行進中

 

メーデー会場となった飯能八幡神社もそうした一地方神社である。農村における生活の安定、農業の興隆を神に祈るという生活習慣と村社会の精神的象徴としての神社と、それらの頂点にある伊勢神宮における祭祀を、国という概念の統一体の頂点としての天皇家がとり行うという関係を通じて一大権力機構を形成している。しかしこれらの権力関係は明治維新により神仏統合を経験したように、宗教への国家介入を通じて形成されたものでありきわめて政治的産物にほかならない。神道は究極的には先の大戦の精神的支柱を成したと分析されている。このような歴史を振り返るに、神社境内における労働運動の頂点としてのメーデー開催は大いに歴史的意義を持つものといえる。蛇足ながら、宗教団体は国家・地方自治体による課税の対象外とされているから、その経済的活動に関しては国民の目からは完全に遮蔽された存在である。お賽銭の大小が生死を分ける神主さんとしては祭祀の振興は死活問題でもある。メーデーに参加した皆さん、お賽銭を上げましたか?

八幡神社

祭神 誉田別命(ほんだわけのみこと)=応神天皇

八幡神社は鎌倉時代に爆発的に建立される。一説には鎌倉を基点に20キロメートルごとに建立された。
以下のうんちくはブログ(うんちく日本史XYZ)から採録したもの。

武家の棟梁となった源氏は、一風変わった神を守護神としていた。それが「八幡大菩薩」(はちまんだいぼさつ)だな。今では、「八幡さま」として親しまれ、全国に4万社以上もの八幡神社があるといわれ、もっともポピュラーな神になっている。でも、「大菩薩」というのは、仏教の菩薩とも違っているんだ。さあ、いったいどんな神様なんだろうか? 今日は源氏と深いつながりを持つ八幡さまに入り込んでみよう。

八幡神社の総元締は、九州大分県の宇佐八幡宮だな。以前、「道鏡・宇佐八幡宮託宣事件の謎」で話したように、孝謙女帝が道鏡に皇位を譲ろうとしたら、これを拒否した神でもあったよね。この神がどのように現れたかという神話は、かなりユニークなものなんだ。

宇佐八幡宮の伝説では、仏教が伝来した欽明天皇の時代(5世紀後半)、宇佐の地に不思議な事件が起こったといわれている。今は宇佐八幡の境内にある菱形池のほとりに、鍛冶師の翁(おきな)や八つの頭の龍が現れ、その姿を見た者は病気になったり、死んでしまったりした。これは古代の「鉄」の話題で出た出雲神話のヤマタノオロチに似ているね。そのオロチが斐伊川を映したものだったり、製鉄の溶けた鉄が流れ出す様子だったりしたように、翁や龍は、水神であって、鉄神でもあったんだな。

ところが、その神話のつづきからは出雲神話と違ってくる。この翁やオロチの祟りを鎮めようと、修行者が断食して祈ると、鍛冶師の翁が子どもの姿で現れ、「我は誉田天皇(こんだのすめらみこと)広幡八幡麻呂(ひろはたやはたまろ)、名は護国霊験(ごこくれいげん)威力神通(いりょくじんつう)大自在菩薩(だいじざいぼさつ)なり」と告げたという。

誉田天皇とは、倭の五王の時代を開いた応神(おうじん)天皇のことで、倭国の建国者といってもよい伝説の天皇なんだ。この神霊は黄金の鷹となって飛び去り、その止まったところに鷹居社を造立し、八幡神として祀ったのが八幡信仰の始まりとされる。こうしたわけで、宇佐八幡は伊勢神宮と並ぶ皇室の祖先神とされ、この国を護るために「大自在菩薩」、すなわち「大菩薩」として現れたとされたんだ。

738年、聖武天皇の勅願によって宇佐八幡の境内に弥勒寺(みろくじ)が建設され、その3年後、天皇から八幡神宮に冠、経文、神馬、僧を奉げられ、三重の塔が建てられたといわれている。740年に藤原広嗣(ひろつぐ)が大宰府で反乱をおこしたとき、聖武天皇が大将軍の大野東人(おおののあずまんど)に「八幡神」に勝利を祈祷させたんだ。また、聖武天皇が願ったあの東大寺大仏の建立の際も、八幡神は奈良の都に入って、その鋳造を助けたという。

東大寺にはその八幡神が僧形八幡神像として残されているけれど、これは仏教の僧りょの姿をしているんだ。日本では仏教が広まる中で、古来の神が実は仏が別の姿をとったものだった、とする「神仏習合」という考え方がつくられていく。

これはすごい大事な日本の方法でもあり、後世までずっとつづく歴史の大切なポイントであるんだけれど、ちょっと今日は飛ばそう。つまり、八幡神は仏教の菩薩号(仏教を広め、仏教信者を救済するもの)が与えられた最初の神だったわけだ。さらに、その「大菩薩」の称号は通常の仏教にはなく、日本で考え出されたもので、永遠に菩薩としてこの世に止まり、成仏しないという決意を固めた神に与えられたんだな。

平安時代初期、密教の最澄や空海も宇佐神宮に詣でたように、八幡神は密教の僧りょらに親しまれていたので、860年、行教(ぎょうきょう)という密教僧が、京都府八幡市の男山に、宇佐から八幡神を勧請(かんじょう=神仏の分身・分霊を他の地に移して祭ること)し、「石清水(いわしみず)八幡宮」を建設した。この石清水八幡宮では応神天皇、神功皇后の神格が強調され,王城を鎮護する神として皇室の崇敬を受けたので、伊勢神宮とならぶ第二の宗廟(そうびょう、祖先を祀る社)とされるようになった。

また、応神天皇、神功皇后の神話は、朝鮮半島から日本列島におよぶ倭国を武力で平定した物語になっている。八幡神は、こうした神話によって、武力の神、戦勝の神ともされるようになったんだ。

この八幡神が、源氏の守護神となったゆえんは、源氏の英雄、源義家が石清水八幡宮で元服し、八幡太郎義家となったからといわれている。しかし、それ以前に、義家の祖父の源頼信や父の源頼義は、石清水八幡宮に限らず、各地の八幡宮に祭文を捧げたり、各地に八幡宮をつくっているんだな。

源頼信は石清水八幡宮に近い河内(かわち、大阪府)に勢力を蓄えていたから、石清水八幡宮は身近な神だったし、武家としては弓矢、戦勝の神でもある八幡様は最も守護神にふさわしかったんだ。それに源氏は清和天皇、あるいは陽成天皇の子孫であることを誇りにしていたから、皇室を守る八幡神を信仰しようとしたとも考えられるわけだ。

もうひとつ、八幡神が源氏の神となっていく大きなきっかけが、源頼義の関東平定、蝦夷に遠征した前九年の役にあるんだ。源頼義は、そのころ唯一の源氏の拠点だった鎌倉に八幡社を創建し、これを起点として5里(約20km)ごとに、いわゆる「五里八幡」を創建したという。これは今でも、関東に荒川八幡、植田八幡、飯野八幡などとして残されているね。1051年、頼義は前九年の役がはじまると、八幡神の加護をいただくため、「このたびの使命を果たすことができたら、鎌倉から奥州へ行く街道10里(約40km)ごとに、八幡社を1社ずつ造る」と祈ったというんだな。

その祈りが通じたのか、源頼義とその子、八幡太郎義家は蝦夷の独立戦争を繰り広げた安倍貞任(さだとう)、宗任(むねとう)を厨川柵(くりやがわのさく、柵は木組みのとりで)に追いつめた。この要衝の地を攻めるとき、頼義は民家の屋根の萱を柵の空堀に敷きつめ、「伏して、乞う八幡三所、風を出し火を吹きて、かの柵を焼く事を」と祈って火矢を放つと、鳩が飛んで一陣の風がおこり、たちまち柵の楼に飛び火して、その混乱に乗じて厨川柵を陥落させたと伝えられる。神の使いとして有名な稲荷の狐や春日の鹿などと同じく、鳩は八幡神の使いとされているんだ。

こんな伝説から、鎌倉期になると幕府は、源頼義が創建した由比ケ浜の八幡宮(現在の元八幡宮)を公的施設として都市鎌倉の中心に移し、鶴岡八幡宮として整備することになった。以来、八幡神は武家社会の中で「武神」として急速に広まり、八幡大菩薩の旗が、戦場を駆け巡るようになっていく。その武士たちが弓矢の神として、全国各地に八幡神社をたくさん創建していったんだ。ところが江戸時代になると戦乱はなくなり、平和になったので、八幡神社は今度は地域を守る鎮守の神になった。こうして八幡大菩薩は、今日のみんなに親しまれている八幡さまになっていったというわけなんだな。